新陰流正伝上泉会は、新陰流を創始した流祖上泉伊勢守信綱を尊崇し、その足跡を顕彰することを目的として設立。日本の伝統武道中の筆頭流派である新陰流を技術的にも文化的にも創流当時の形で正しく承継していくことを最重点においている。流祖から二世、柳生石舟際が伝えられた「本伝」の使い方を中心に据えて稽古し、後世に誤りなく継承しようと島正紀会長の下、活動を続けている。
新陰流正伝上泉会の機関誌に「しんかげ」がある。同紙より依頼され平成26年冬号に以下の文章を寄稿した。
「武骨天使」 上泉德雄
平成二十一年五月二十三日のことであった。その日、私は句会に出席するため靖国神社を訪ねた。その日の句会は、嘱目吟といって、目に触れたものだけを詠むものであったから、靖国神社内をくまなく歩いていた。
能楽堂前に来ると、古武道の演武が行われようとしているところだった。しかも新陰流である。私は雷に打たれたような思いで、そこに立っていた。私から遡ること十四代前の上泉伊勢守信綱が天上から見ているような気さえした。
おもむろに私は、「上泉と申す者ですが」と名乗り、そこから島正紀会長並びに岡山の上泉貴世さんとの出会いに恵まれた。
私の祖父、上泉德彌は伊勢守を尊敬し、現代の伊勢守たらんと海軍士官になった漢(おとこ)であった。私は、その祖父をこよなく敬愛している。新陰流の実践者としては経験皆無であるにも関わらず、私が新陰流正伝上泉会の顧問をお引き受けしたのは、祖父からの命と感得したからである。むろん、前述のような奇跡的な邂逅があってのことだが。
私にとって、どうしても抜けない想い。それは、日本の失われてしまった「男たちの原型」への憧憬である。その原型として、まず思い浮かぶのは、広瀬武夫の「ますらおぶり」である。
広瀬は、日露戦争時、旅順閉塞戦において、壮烈な戦死を遂げた海軍軍人である。また、祖父の親友でもあった。
ロシアを仮想敵国として軍事政経の両面から徹底的に研究しながらも、同時に広瀬は、この国を友人たちの国として愛し、プーシキンやゴーゴリやトルストイの国として尊敬するようになっていった。このことは、広瀬という人間の輪郭を変えていった。海軍軍人としてだけでなく、人間として、ロシアの海軍士官たちにも、ロシア貴族の女性たちにも好かれるナイスガイに変容したのである。
島田謹二著『ロシアにおける広瀬武夫』には、「武骨天使伝」という副題がついているのだが、まさにその通りの男であった。
コワレフスキー少将の令嬢アリアズナは、生涯を通じ広瀬を慕った女性であるが、それも、この武骨天使「タケオサン」の頼もしい優しさゆえであろう。また、ある令嬢は、彼の壮烈な戦死を知って敵国日本にひそかに悔みの手紙を送った。「私どもはあの方の情深く、誠実なお心を決して忘れることはございません。あの方は本当に偉大で、高貴な方でございました」と。
広瀬のような武骨で優しい男は、今やわが国には、ほとんど存在しない。
しかし、私は新陰流正伝上泉会の男たちが剣を持って真剣な面持ちで相対するとき、新陰流の話で熱く酒杯を交わすとき、ふっと「武骨天使」という愛すべき男の面影を、そこに見い出すのである。
これはお世辞ではない。本当の事だ。(笑)