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トランペットの海ゆかば

トランペットの海ゆかば

五月二十七日(旧海軍記念日)、私は横須賀の記念艦三笠で行われた日本海海戦111周年記念式典に参列した。式典後、海上自衛隊横須賀音楽隊による演奏が行われ、トランペットによる即興の鎮魂の譜「同期の桜」「海ゆかば」が演奏された。その哀切な調べに目頭を払うオールドネービーたちを目撃した。遺族と思われる老婦人たちも同様であったし、私の心にも熱いものがこみ上げてきた。

思うに、帝国海軍という組織は、明治維新以降の近代日本が生んだ数知れない組織体の中で最もユニークなものの一つである。そうでなければ、それが滅んですでに71年も歳月が過ぎ去った今でも、何万何千という元ネービーが実在する組織に対するような愛着をもってお互いの結束を確認しあう機会をもち続けている現象を理解できないし、アメリカを始め世界の主要海軍国が熱意をもってその飛躍と転落の足跡を研究し続けている現象を理解できない。

組織が人を生かすのか、人によって組織が生かされるのか。帝国海軍の場合、創成期に傑出した人材に恵まれ、その幸運が組織を充実させた。すぐれた組織と人材のバランス。この機能を最大限に発揮したのが、日本海海戦の完全勝利であった。しかし帝国海軍が国運をかけてバルチック艦隊全滅という至難の使命達成をなしとげたこの時が、組織にとっても人にとっても頂点であったように思う。

軍艦のような生きた協同体にあっては、その戦闘能力を決定するカギは乗組員全員にどれほど渾然たる一体感があるかである。この一体感は艦長以下の幹部が日頃いかに部下の士気を掌握し信頼を得ているかにかかっている。

たとえば、一つの水雷戦隊に属する数隻の駆逐艦が同じ条件で敵機の来襲を受けた場合、一分以内に脆くも轟沈するフネから何時間も平気で雷爆撃を回避して生き残るフネまで、運命が分かれるのが常である。

その差はどこから来るのか。もちろん実戦に運不運はつきものだが、「撃チ方ハジメ」の艦内命令が出た瞬間、艦長の操艦指揮と一水兵の一挙手一投足の間に一呼吸ほどでも間隙のあるフネは、間違いなく撃沈される、と歴戦の駆逐艦乗りから聞かされたことがある。

帝国海軍はフレキシブル・ワイヤー(しなやかな綱)でなければならないとよく言われるが、その後、先の大戦末期帝国海軍は集団としての柔軟性をことごとく失っていった。神風特攻の編成責任者は練習機程度の飛行機に十分な燃料を乗せることもなく、毎日、多くの若い生命を南溟に捨て続けた。何がここまで組織を硬直化させたのか。

それを研究することは今後の日本を考える上で示唆に富むのではないか。記念艦三笠での「海ゆかば」を聞きながら、自分の属している国家、民族、社会、時代を己のこととして考えることの少なくなった昨今を思った次第である。(2016年6月)

 

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江藤淳 陰陽・虚実・裏表

あれは暮れもまだそれほど押しつまらないころだったが、私は資料を捜しにある古書展に出かけた。場所は神田駿河台下の古書会館で、「明治・大正・昭和・文献百年古書展観大入札会」という大看板を掲げた催しである。

しかし古書展といっても、当節では客寄せにつかわれているのは古書よりは

むしろ短冊・色紙・書画幅のたぐいのほうである。値が上がっているとはいうものの、利幅の限られている古書とはちがって、筆跡のほうは骨董なみの商いができるという売り手側の思惑があるのかも知れない。あるいは近代文学館の開設などに刺激されたひとつのブームが、この世界にもおこりつつあるのかも知れない。その辺の事情がどうなっているのかよくわからないが、いずれにせよ私は、はからずもこの展観で、種々さまざまな文学者の筆跡を見て歩く機会にめぐまれたのである。

それは私にとっては、それほど清清しい体験だとはいえなかった。巧拙は別として、文士の筆跡には、どことなく私の嫌悪感をそそるものが多かったからである。それらはどこかで折れ曲がり、病み、求愛し、自己を無残に噴き出し、見ているうちにだんだん息が詰まりそうになって来る。

もし書が人格をあらわすものだとすれば、この会場にぎっしりと並んでいる人格は、どれもあまりめでたいものだといえそうもなかった。私の嫌悪感に自己嫌悪が反響していたことはいうまでもない。ただ隠れているというだけで、自分のなかに同じいやなものがあることは確実だったからである。

秋艸道人はいわばこの道の玄人だから、その書に見事な造形感覚があるのは当たり前である。これを別格とすると、ああ、窓が開いているな、風が吹きこんで来るな、と感じられるのは、漱石と晩年の谷崎潤一郎くらいのものであった。しかし漱石にも、意外に弱々しい、肩のそげ落ちたような色紙があり、潤一郎の書も、若いころのものにはちょっと白痴的なところがある。荷風も決して気持のいい字ではないが、鴎外はもっと惨憺たるものであった。へただというのではなくて、ひと口でいえばいやらしいのである。あるいはひどく小心翼々としているのである。

いい加減いやになって帰りかけると、入り口の近くに実にさわやかな大幅の書が、ふたつ並んで掛かっているのが目についた。そこだけは青空が開け、薫風がわたって行く、というような気持のよさであった。ほっとしてそばに寄ってみると、それは果たして文士の書ではなかった。そのひとつは副島種臣であり、もうひとつは広瀬武夫だったからである。

副島なら漢学に通じていたので有名な人物古本屋である。彼は太政官政府の外務卿として英国公使パークスの「天狗の鼻」をくじき、北京に使いして李鴻章と対等にわたりあって名をあげた。そのため下野して明治八年に中国漫遊の途についたときには、世間がきっと北京の朝廷に仕官するのだろうといううわさを立てたほどだという。このうわさにはある程度の根拠があったのである。

この副島が、蒼海と号して書をよくしたことは、かなりよく知られた事実である。私は今まで実物に接する機会がなかったが、こうしてつぶさにながめてみるといかにも大らかな字で、しかも壮烈雄渾の趣がある。副島に清朝への仕官をすすめて断られた李鴻章が、それではなぜ大久保利通と妥協しないのか、大久保の上にいるのも下にいるのもいやなのかと反問したとき「人の上とならず、人の下とならず、心まことに寧静にして、大福長者たり」と答えて、李を唖然とさせたという偉丈夫のおもかげを、ほうふつさせるような立派な字である。

これはいいなあと思ってほれぼれと見ていると、見知りごしの古本屋の主人が、「どうです。買いませんか。安いですぜ。」

といった。値段をたずねると、「さあ、入札してみなけりゃ、はっきりしたことはわからねえが、五万とはしないでしょうね。まあ三万てとこかね」といった。そして「あの啄木が五十万じゃとうてい落ちねえだろうってんだから、へっ、世の中が間違ってんだね」とつけ加えた。

彼のいう「あの啄木」とは、「こころよく春のねむりをむさぼれる月にやはらかき庭の草かな」という短歌の書かれた歌幅のことである。それはたしかに美しく、優雅ですらあり、文学者の書のなかでは光っているもののひとつであったが、素人の私が見ても、書としてのスケールは副島とはくらべものにならない。私も副島ファンの古本屋にならって首をかしげ、内心のショックをおさえかねた。

「あたしが買っちまいたいんだけど、掛けるところがないんでね。あんたのとこはどうですかね」と古本屋がいった。私のところにはだいいち床の間がない。そういうと古本屋は、やれやれといった調子で首を振った。のちに彼が電話で知らせて来た情報によれば、啄木は結局八十九万円で落ちたそうである。

副島はやはり三万円で、広瀬武夫はそれ以下であった。世の中がどうも少しおかしいと、私は慨嘆せざるを得なかった。

私がいいたいのは、いわば単に陰であり、虚であり、裏側の仕事だったはずの文学が、今日陽であり、実であり、表側の仕事である政治・外交のごときにくらべて、これほど偏重されているのは異常ではないか、ということである。それが単に文運隆盛のしるしならおめでたいが、本当にそうであろうか。陰陽・虚実・裏表の順序が狂っている世界の繁栄は、実は虚像の繁栄ではないか。そしてそのなかで文学は、実は涸渇して行くのではないか。

私はなにも、啄木の歌幅に副島種臣の七絶の三十倍の値がついているからといって、啄木がけしからぬといっているわけではない。第一こんな値ぶみは、啄木の知ったことではない。値をつけたのは今日の文運隆盛的時流であり、啄木は一生貧乏して死んだからである。

こういう文運隆盛の余沢をこうむって生計を立てている批評家のひとりとして、私は純職業的見地からすれば、おそらく文学者の社会的・え、済的地位の向上を喜ばなければならないであろう。文士が「進歩」と「正義」の味方のような顔をして威張っていられて、そのことによって多額の収入を得られるような時流に変化がないほうが、自分には好都合なはずだからである。だが、そう思いながらも私は、本来陰であり、虚であり、裏側の世界の生息者であるはずの自分が、どうして表通りで営業しているような顔をしなければならぬのか、という疑問からのがれられない。早くいえば私は、このことがひどく恥ずかしいのである。

これが私ばかりの感想ではないことは、先日ある場所で同席した某作家が、「おれの収入が内閣総理大臣の給料より上だというのは、どうもちょっとぐあいが悪いよ」と述懐していたことからもうかがわれる。この作家は私より年長の純文学作家であるが、別段大流行作家というわけではない。批評家である私の収入が、この作家にも内閣総理大臣にも遠く及ばぬことはいうまでもない。だから私のいう「恥ずかしさ」は、かならずしも収入のことだともいえない。それはむしろ、文士がいるべき場所を間違えているという感覚に近いのである。

最近英国の桂冠詩人になったセシル・デイ・ルイスは、原始社会における詩人が、しばしば不具者、あるいは病者であったといっている。つまり彼らは、本来社会に生存を許されぬ者、かりに許されても表側の実社会の人間から侮蔑されざるを得ない者であった。この陰、はまた虚の世界の生息者が、わずかに存在を主張し得たのは、不具や病苦の代償として彼らが得た鋭敏な感受性と想像力の所産、つまり詩歌や物語の力で、実の世界の住人に悦びをあたえたからであった。

こういう詩人の属性は、文芸の目的が善や美ではなくて真実の追及だとされるようになった近代になっても、多くの社会うにいたといってよい。現に私は、その最も新しい例を、ノーマン・メイラーと現代アメリカ社会との関係に見ることができた。メイラーはこの社会で英雄・偶像として尊敬されるかわりに、多数の侮蔑の対象となっている。彼の講演に集まる聴集も、いわば「侮蔑される者」というメイラーのアイデンティティを維持してやるための協力者、といったようなものである。しかしこれは、メイラーの善良なアメリカ市民としての不名誉であっても、「詩人」ー文士としての不名誉だとはいえない。かりに彼が、その作品を、文字によりは実人生に書くことを、いささか好みすぎるとしても。

文士と社会との、つまり陰と陽、虚と実とのこういう健康な関係は、前述のとおり今日の日本からは全くうしなわれているように見える。ここでは文士は、陰と虚との、つまり「文学」の旗印をかかげて、陽と実、つまり政治と商業にいそしみ、そのことによって世の称賛を得ようと腐心しているのである。そして世間もまたこのことを許しているのである。

幕末・明治初期の戯作者と社会のあいだには、おそらくこの健康な関係が維持されていた。だとすれば、今日の倒錯の原因は、通常日本文学に近代を開いたとされる、坪内逍遥の「小説改良」のなかにひそんでいたのかも知れない。彼が「稗官者流は心理学者のごとし」といって、戯作者を科学者と同列に置いたとき、逍遥はおそらく陰・虚・裏の世界の生息者だった文士を、陽・実・表の世界に引きずり出してしまったのである。

それはいうまでもなく、日本が引き受けた近代国家建設という大事業が、不具者や病者の手をも必要としていたからにはほかならない。文士はこれ以後、片手で国家建設という「実業」に従事しながら、残った片手で近代小説の確立という「虚業」に従事するという奇妙な一人二役 を強いられてきた。それは鴎外・漱石というような直接国家建設に参画した文人ばかりでなく、藤村・花袋・泡鳴というような在野の文士についても同じである。この過程に虚偽の芽がひそんでいた。彼らがそれにもかかわらず「詩人」であり得たのは、この過程でなお伝統的な陰陽・虚実・裏表の関係が、社会の不文律のなかに維持されていたからである。啄木が反抗的詩人であり得たのは、彼を生活無能力者と断罪する実社会の規範が堅持されていたためである。

今日「国家」のみならずこの規範までが全面的に崩壊していることは、つけ加えるまでもない。かつて三島由紀夫氏がボデー・ビルをはじめ、胸毛の濃さを誇ったころには、功利的実社会に陽の人間として生きるための「仮面」を、その肉体に求めざるを得なくなった病者・不具者のアイロニーがあった。現在自らの不具性・癈疾性・生活無能力者性を白昼堂々と掲げて、旺盛に政治と商業を行なっている文士たちには、すでにこのアイロニーの自覚はうしなわれているかのように見える。

虚業を掲げて実業に従事することはすでにひとつの虚偽である。さらに病者が統治しているこの崩壊後の社会は不文律のかわりに巨大なジャーナリズム機構のつくり出した虚像におおわれている。文士はこうして政治と商業を行なうために虚像に忠誠を誓わざるを得ず、虚偽をおかしつつ虚像の中に生きることを強いられている。近代小説の仮構は真実にいたる道程であった。今日の小説の仮構はしばしば真実から遁走する手段であるかのように見える。

かつて久保田万太郎は、悪人なら悪人らしい小説を書けといった水上滝太郎の批判を伝え聞いて、「そんなことをしたら、今までの僕の読者がみんな逃げてしまうよ」といったという。これはスキャンダルとして小島政二郎氏に記録されている。今日の文士は、万太郎以上に読者の目に映じる自己の虚像に拘束され、かつそれを維持するために涙ぐましい努力をつづけている。しかもこれはスキャンダルではないのである。

神のものは神へ、カエサルのものはカエサルへ、というのが、私のことしの文壇に対する期待である。しかしそれは容易に実行されまい、というのが、私の漠然たる予感である。                (1968・1)

 

漱石と国家

漱石が「法学協会雑誌」に書いた「明治天皇奉悼之辞」とは、次のようなものである。

『過去四十五年間に発展せる最も光輝ある我が帝国の歴史と終始して忘るべからざる大行天皇去月三十日を以て崩ぜらる天皇御在位の頃学問を重んじ給ひ明治三十二年以降我が帝国大学の卒業式毎に行幸の事あり日露戦役の折は特に時の文部大臣を召して軍国多事の際と雖も教育の事は忽にすべからず其局に当る者克く励精せよとの勅諚を賜はる

御重患後臣民の祈願其効なく遂に崩御の告示に会ふ我等臣民の一部として籍を学界に置くもの顧みて

天皇の徳を懐ひ

天皇の恩を憶ひ謹んで哀衷を巻首に展ぶ』

又、熊本大学(旧五高)の校庭に碑文に刻まれてのこっている「夫レ教育ハ建国ノ基礎ニシテ師弟ノ和熟ハ育英ノ大本タリ」という、五高創立記念日の式辞は、そのもっとも早い例である。つまり明治三十年以降、漱石は明治国家を自分の国家と考えるにいたった。

関川夏央『文学は、たとえばこう読む』(岩波書店2014年5月27日刊)より

同時代と切り結び、実社会と、そこに生きる人間の営み、その真実に迫るものこそ、文学だ。

小説からノンフィクション、マンガにTV、鉄道に将棋……幅広いジャンルの、さまざまな書籍の海原を渉猟し、読むことの豊饒な世界にあなたを誘う。

85頁より

女性に叱られないで済む場所

浜 なつ子『死んでもいい(マニラ行きの男たち)』

フィリピンの雨はあたたかい。潮気をたっぷり含んだ熱気を、大量の水が一気に洗い流してくれるようだ。

日本人の男がフィリピーナと、彼女の部屋のベットにいる。トタン屋根には大きな穴があいていて、熱帯の雨がそのまま部屋の中に降り注ぐ。ベットが濡れ、ふたりの体も雨に打たれる。

高浜年尾 8句 (坊城俊樹 零の会 資料2013.12.7 より)

暑き町を流れゐて夜の人通り

遠き家の氷柱落ちたる光かな

春立つやそぞろ心の火桶抱く

踊る人月に手を挙げ足を上げ

京に来ていつもどこかが時雨をり

秋晴れやかもめの尻に水の映え

土器に浸みゆく神酒や初詣

火蛾落つる燈下に湖の魚来る

高浜虚子 8句 (坊城俊樹 零の会 資料 2013.12.7 より)

怒濤岩を噛む我を神かと朧の夜

一つ根に離れ浮く葉や春の水

帚木に影といふものありにけり

白牡丹といふといへども紅ほのか

手で顔を撫づれば鼻の冷たさよ

大空に伸び傾ける冬木かな

春の山屍を埋めて空しかり

独り句の推敲をして遅き日を

坊城俊樹 10句 (坊城俊樹 零の会 資料2013.12.7 より) 

人の死の水からくりに似し夕べ

蟻ひとつ天台宗の門を入る

灯と星の間に蛍かな

みみず鳴く夜は暁へすこしづつ

鉱山の町おほむね錆びて冬銀河

踏絵してよりくれなゐの帯を解く

七夕の指を灯して蝋燭屋

しだらでん母と摘み置く菫さへ

寒き電線絡み入るスナック純

曽祖父の膝の上流れ天の川

角川春樹 自選十句 朝日カルチャーセンター「わたしの俳句」2013/11/13

黒き蝶ゴッホの耳を殺ぎに来る

向日葵や信長の首斬り落とす

そこにあるすすきが遠し檻の中

存在と時間とジンと晩夏光

年ゆくや天につながるいのちの緒

獄を出て花の吉野をこころざす

にんげんの生くる限りは流さるる

蒼茫の夜空を渡る雁の数

白い戦場となるフクシマの忌なりけり

夕鶴忌去りゆくものに追いつけず

たっぷりと真水を抱きてしずもれる昏き器を近江と言へり
河野裕子 歌集『桜森』より

しぐるるや昏き器の愛莉魞の湖

角川春樹

昭和天皇御製

 
天地の 神にぞ祈る 朝なぎの 海のごとくに 浪たたぬ世を

西ひがし むつみかはして 栄ゆかむ 世をこそいのれ としのはじめに

爆撃に たふれゆく民の上をおもひ いくさとめけり 身はいかならむとも

身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおもひて

国がらを ただ守らんと いばら道 すすみゅくとも いくさとめけり

外国と 離れ小島に のこる民の うへやすかれと ただいのるなり

ふりつもる み雪にたへて いろかへぬ 松ぞををしき 人もかくあれ

戦の わざはひうけし 国民を おもふ心に いでたちて来ぬ

わざはひを わすれてわれを 出無むかふる 民の心を うれしよぞ思ふ

ああ広島 平和の鐘も 鳴りはじめ たちなほる見て うれしかりけり

外国に つらさしのびて 帰りこし 人を迎へむ まごころをもて

外国に ながくのこりて かへりこむ 人をおもひて うれひはふかし

国の春と 今こそはなれ 霜こほる 冬にたへこし 民のちからに

夢さめて 旅寝の床に 十とせてふ 昔思へば 胸せまりくる

ここのそぢ へたる宮居の 神々の くににささげし いさををぞおもふ

国のため 命ささげし 人々の ことを思へば 胸せまりくる

国守ると 身をきずつけし 人びとの うへをしおもふ 朝に夕に

忘れめや 戦の庭に たふれしは 暮しささへし をのこなりしを

国のため たふれし人の 魂をしも つねなぐさめよ あかるく生きて

樺太に 命をすてし たをやめの 心を思へば むねせまりくる

国のため いのちささげし 人々を まつれる宮は ももとせへたり

よろこびも かなしみも民と 共にして 年はすぎゆき いまはななそぢ

我が庭の 宮居に祭る 神々に 世の平らぎを いのる朝々

みそとせを へにける今日も のこされし うからの幸を ただいのるなり

この年の この日にもまた 靖國の みやしろのことに うれひはふかし

思はざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果さむ つとめありしを

やすらけき 世を祈りしも いまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど

明治天皇御製

 
わが国の ためをつくせる ひとびとの 名も武蔵野に とむる玉垣

あしはらの 国のさかえを 祈るかな 神代ながらの 年をむかへて

よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ

神がきに 朝まゐりして いのるかな 国と民との やすからむ世を

国のため たふれし人を 惜むにも 思ふはおやの こころなりけり

戦の いとまある日は ますらをも 都の友の うへやいふらむ

末とほく かかげさせてむ 国のため 命をすてし 人の姿は

ちはやふる 神のおましを はじめにて 今年の塵を 拂はせてけり

かぎりなき 世にのこさむと 国のため たふれし人の 名をぞとどむる

くにのため 心も身をも くだきつる 人のいさをを たづねもらすな

子等は昔 軍のにはに いではてて 翁やひとり 山田もるらむ

たたかひに 身をすつる人 多きかな 老いたる親を 家にのこして

ちはやふる 神の心にかなふらむ わが国民の つくすまことは

はからずも 夜をふかしけり くにのため いのちをすてし 人をかぞへて

ひさしくも いくさのにはに たつひとは 家なる親を さご思ふらむ

よとともに 語りつたへよ 国のため 命をすてし 人のいさをを

近からば わが庭ざくら 北支那の たむろに折りて やらましものを

故郷を 遠くはなれて いくさ人 花のさかりも しらずやあるらむ

国のため いのちをすてし もののふの 魂や鏡に いまうつるらむ

たまづさを 翅にかけて ゆく鳩も いくさの道を ふみならひけむ

靖国の やしろにいつく かがみこそ やまと心の ひかりなりけれ

国のため 命をすてし ますらをの すがたをつねに かかげてぞみる

国のため うせにし人を 思ふかな くれゆく秋の 空をながめて

国のため いのちをすてし ますらをの たままつるべき 時ちかずきぬ

ますらをも 涙をのみて 国のため たふれし人の うへをかたりつ

むかしより ためしまれなる 戦に おほくの人を うしなひしかな

あさなあさな みおやの神に いのるかな わが国民を 守りたまへと

みなし子に かたりきかせよ 国のため 命すてにし 親のいさをを

神がきの かがみのうちに やどるらむ 身はなき人の やまと魂

こよひまた むかしがたりは 国のため たふれし人の うへにおよべり

たたかひの ありし昔の よがたりに たふれし人を まづおもふかな

のこしおきし 文とりいでて いさをある 人の昔を しのぶけふかな

もみぢばの 赤きこころを 靖国の 神のみたまも めでてみるらむ

おごそかに たもたざらめや 神代より うけつぎきたる うらやすのくに

とこしへに 国まもります 天地の 神のまつりを おろそかにすな

あかつきの ねざめねざめに 思ふかな 国に盡しし 人のいさをを

世はいかに 開けゆくとも いにしへの 国のおきては たがへざらなむ

いにしへの 姿のままに あらためぬ 神のやしろぞ たふとかりける

国のため 人のためにと ますらをが おもひさだめし ことなたがへそ

身をすてて いさををたてし 人の名は 国のほまれと ともにのこさむ