カテゴリー別アーカイブ: 呑海雑記

自句自解(俳句春秋)2018/夏

 在日米軍へ上目遣いの暑さかな

在日米軍は、日本に70年以上にわたって居続けている。そのことに対して、今の時代精神とは違うかもしれないが、私の中には絶えず、こんなことでいいのかという疼きがある。その疼きを一句に落としたかった。(季語・暑さ)

 夏至の雨アイリッシュパブの窓明り

横須賀を訪ねた折の一句。私は逗子で育ったため、横須賀は幼いころからよく出かけた街である。上記のような思いのある私は、その疼きを抱えながら米軍基地、空母、米兵を見てきたということになる。ところが、その基地の街は今や日本人観光客によって安っぽく大量に消費されている。嗚呼。(季語・夏至)

 浜昼顔過去の過ぎゆく無人駅

学生時代、友人たちと車2台で北海道を旅した。駅の名前も忘れてしまったが、小さな無人駅のそばに浜昼顔が海に向かって咲いていた。なにげない一光景だが、私の心の奥に深く降りて行った。今でも浜昼顔を見つけると、ついその沈澱に浸ってしまう。(季語・浜昼顔)

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自句自解(俳句春秋)2018/春

擦り切れたデッキシューズや風光る

「モノ俳句」とは、モノに託して自己を表現する俳句のことである。「擦り切れたデッキシューズ」というモノには、人生も後半の半ばを過ぎたという私の思いがある。ところが、「風光る」季節になると海に戻りたいとの気持ちがふつふつと湧いてくるのもまた事実。(季語・風光る)

花の雨きのふの海の昏れ切らず

4月7日は戦艦大和が沈んだ日。直接、大和のことを詠んだ句ではないが、大和への鎮魂が私の血肉となっている。作者としては、大和の忌は民族の一大叙事詩であると確信している。読者それぞれの実存性である「きのふの海」に触れんことを。(季語・花の雨)

逃げ馬の春が一瞬過ぎて行く

寺山修司は逃げ馬に賭けるのが好きであった。競馬は人生の縮図。先行逃げ切りの馬は、負けることがわかっていながら逃げ馬にならざるを得ない。しかし、時には疾風のごとく駆け抜けて勝つ。だから、季語はやっぱり青春の「春」だ!(季語・春)

 自句自解 (俳句春秋) 2017/ 冬

歳晩やマリンブーツのつけし跡

年末になるとヨッティングの機会も減ってくる。今年最後のヨッティング。艇(ふね)も念入りに洗う。ヨットの甲板にはマリンブーツの跡がくっきりとついている。あんなことこんなこと、今年の海での思い出を回顧しているかのようだ。(季語・歳晩)

終着駅あの日の鷹にめぐり逢ふ

海沿いの街の駅で鷹がゆったりと飛んでいるのを見た。その大きく旋回する姿は自分の来し方を思い起こさせ、かつて若い時に戦ったときの熱い思いとめぐり逢ったような気がした。(季語・鷹)

少年が俺の枯野で泣いてゐる

こういう句を自句自解しようとすると、どうにも照れがある。読んで頂いた方が何かを感じて下さればそれで充分である。ちなみに、この「枯野」は実景ではないから季語として成り立たない、という考え方もあるが、私は、一行詩としてそこに己の思いを乗せるのであるから、この「枯野」は季語として生きると考えている。(季語・枯野)

自句自解(俳句春秋)2017秋

 

俳句春秋     上泉呑海

マリーナの遥かに灯る水の秋

秋になると突き抜けるような空と共に、海や川の水も澄んでくる。「秋の水」「水の秋」はこの季節感を表わす季語だが、「秋の水」には「秋」に、「水の秋」には「水」に重点が置かれる。一日の帆走を終え、ハーバーに戻って来た黄昏どきの清々しい水の景を詠んでみた。(季語・水の秋)

夕かなかな母の衣桁のしづもれり

「かなかな」とは蜩のことである。油蝉やみんみん蝉、にいにい蝉は夏の季語だが、蜩は秋である。晩夏から秋にかけて「かなかな」と鳴く声は寂寥感を含み、胸に迫るものがある。と同時に少年時代の記憶をも蘇らせる。(季語・かなかな)

秋天に父の大弓(だいきゅう)ひようと鳴る

私の父は判事をしていたが、大弓の全国大会で優勝するほど弓が好きであった。父の遺品の大弓は私の手元にあるが、それを目にする度に背筋のぴんと通った父の袴姿を思い出す。と同時にその音が秋の澄んだ空に「ひょう」と鳴った。(季語・秋天)

自句自解(俳句春秋)2017夏

日輪の軋みの音や沖縄忌

沖縄の人に不条理を押し付け、国防から目をそらしている平成日本。沖縄忌  とは、多くの民間人も犠牲となった沖縄戦において沖縄の日本軍が壊滅した6月23日をいう。太田實海軍中将の最後の電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」は悲痛である。上記の歴史的事実を想起したとき、心に日輪(太陽)の軋む音が聞こえた。(季語・沖縄忌)

羽蟻とぶ高角砲の錆び付けり

極東アジアの情勢が緊迫度を増している今日、ことここに至っても、高角砲は錆び付いたままである。その周りを、自己の金儲けだけを考えている無数の羽蟻が飛んでいる。(季語・羽蟻)

夾竹桃の白に風ある太宰の日

太宰治は、『人間失格』『斜陽』『走れメロス』などで知られる無頼派作家。昭和23年6月13日に玉川上水に入水自殺した。太宰忌は桜桃忌とも言うが、その日はよく雨になる。太宰のことを思っている私に夾竹桃の白い花が風に揺れていた。(季語・太宰忌)

 

自句自解(俳句春秋) 2017/春

俳句春秋 2017・春     上泉呑海

 まぼろしの蝶を見てゐる花の椅子

 桜を愛でていると、四頭の蝶が舞っているような気がした。その蝶は、なつかしい父母、祖父母ではないかと思われた。四人とも桜が大好きであった。彼らはすでにこの世にはいないが、彼らもこの桜を見てをり、一族が再会した。(季語・花=桜)

 神々に触るるばかりに櫻かな

 靖国神社の社務所の二階から見上げたとき、桜花爛漫たる景が飛び込んできた。英霊が神々として靖国に帰還され、桜と交歓されていることを確信した瞬間の一句。(季語・桜)

 白鳥のこゑを遺して帰りけり

 俳句の世界では、親しい人が亡くなると弔句をつくり、その人を偲ぶという伝統がある。この句は先般、私の句友が亡くなった折の弔句である。その方は、著名な水墨画家でかつ俳人であった。ころころとした明るい声の持ち主であった。ちなみに、「澤乃井」や「浦霞」のラベルも描いておられた。(季語・鳥帰る)

 

鎌田俊句集『山羊の角』一句鑑賞

飽食の世に狼の生きられず    鎌田俊

 

この句の眼目は「狼」である。太った豚はあり得ても、肥えた狼など存在しない。アポリアとしての狼は、飢えていなければならない。換言すれば、狼の才能とは、飢えてなお生き続けることであろう。メタファーとしての狼…私は以下の人々を想起した。三島由紀夫、江藤淳、村上一郎、野村秋介。皆、現代ののっぺらとしたふやけた飽食の時代に絶望して自ら命を絶った人たちである。そしてなお、その言語、行為、思想において、死してなお生き続けている漢たちである。もとより、鎌田俊氏の描く狼とはまるで違っているとは思うが。 句集『山羊の角』の全三百二十句の中で狼が詠まれているのは、<おほかみを祀りて水の澄みにけり><狼を起こさぬやうに話しけり>と掲句の三句である。<おほかみ>の句は、三峯神社などの景であろう。問題は、<狼を起こさぬやうに話しけり>である。この狼とは、何のメタファーであろうか。狼とは、日本ではもう既に絶滅したという山犬であると、鎌田氏は「蛇の足」で解説している。私は失われた日本人のエートスだと、感じ入った。これまた氏の想定する狼とは異なるだろう。 読者それぞれがイメージする狼とは何であろうか。

自句自解 俳句春秋・2016・冬

俳句春秋     上泉呑海

狼の最期、それからの占領期

現在、日本に狼は存在しない。絶滅したからである。掲句の「狼」を私は、三島由紀夫、江藤淳、村上一郎らのメタファーとして使った。現代のふやけた飽食の時代に生きてなんぞいられない男たちである。狼の死後、日本は精神的にも占領期が続いている。(季語・狼)

 極月(ごくげつ)の海軍カレーに浪の音

 十二月八日は開戦日である。日本で最初にカレーが出されたのは海軍であり、戦前から海軍では毎週金曜日にカレーが提供されている。昨年、海上自衛隊横須賀地方総監部のトップと会食したが、その際、出されたのも海軍カレーであった。(季語・極月=十二月)

 去年(こぞ)今年(ことし)まだガラケーで押し通す

 俳句では俳諧味という言葉がよく使われる。俳句ならではの、可笑しみである。この句は俳諧味があるというほど上等ではないが、私としてはめずらしく息を抜いて作った。(季語・去年今年)

角川春樹句集『健次はまだか』一句鑑賞

国敗れたる日や天にこゑもなし    角川春樹

「国敗れたる日」とは敗戦日を指す。しかしここでは、昭和二十年の八月十五日であると規定したい。あの日、日本列島は抜けるような青空が広がっていた。昭和天皇の終戦の詔勅を聴いた。直後、人々は言葉を失い、しいんとした静けさに包まれた。完璧な無の瞬間。まったく言葉のない世界である。あるのは、強い陽の光のみ。鳥の声もない。人の声もない。神の声すらない。どこまで行ってもたどり着けない、しいんとした、絶対的な静けさ…武力による全的敗北とはそうゆうものであろう。この絶対的な沈黙は何を意味するのか。天籟が聞こえたのだ。そしてその天籟は、角川源義においては国語教師を辞めさせ、「角川書店」を興させる声となった。柳田國男、折口信夫を師系とする民俗学徒であった源義は、占領下の教師という役回りを演ずることに納得できなかったのだろう。そして、先の大戦の敗北は、「軍事力の敗北であった以上に文化力の敗退」でもあることを思い知った。源義には<敗戦の日や向日葵すらも陽にそむき>という痛切な一句がある。掲句は、父・源義に対する春樹主宰の渾身のオマージュである。

自句自解(3)

俳句春秋     上泉呑海

かなかなや時間の影を曳いて啼く

かなかなとは、蜩のことで、秋の季語である。私は小さいころから、家の裏山で鳴くカナカナカナ…という声を聞いて育った。人生、いろいろなことがあったが、もの哀しいこの声を聞くと時間の影を曳いて啼いているように感じられる。

水と空ひとつに溶けて秋満てリ

秋になると海の色が澄んで濃くなってくる。青が藍に変わるのだ。秋のセーリングは一年で最も気持ちのいいものだ。水と空がひとつになり、気分も高揚。「行こうぜ、行こうぜ」という気持ちになってくる。

寄港地のハーバーライトにある秋気

秋の気配をどこで感じるか。この句は、遠くから見た寄港地のハーバーライトに感じた、という意味だが、この寄港地はすべて読者のイメージにゆだねられる。外国でも国内でも、読者がイメージして下さることができれば、作者としては最高に嬉しい。