カテゴリー別アーカイブ: 呑海雑記

自句自解(俳句春秋)2017夏

日輪の軋みの音や沖縄忌

沖縄の人に不条理を押し付け、国防から目をそらしている平成日本。沖縄忌  とは、多くの民間人も犠牲となった沖縄戦において沖縄の日本軍が壊滅した6月23日をいう。太田實海軍中将の最後の電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」は悲痛である。上記の歴史的事実を想起したとき、心に日輪(太陽)の軋む音が聞こえた。(季語・沖縄忌)

羽蟻とぶ高角砲の錆び付けり

極東アジアの情勢が緊迫度を増している今日、ことここに至っても、高角砲は錆び付いたままである。その周りを、自己の金儲けだけを考えている無数の羽蟻が飛んでいる。(季語・羽蟻)

夾竹桃の白に風ある太宰の日

太宰治は、『人間失格』『斜陽』『走れメロス』などで知られる無頼派作家。昭和23年6月13日に玉川上水に入水自殺した。太宰忌は桜桃忌とも言うが、その日はよく雨になる。太宰のことを思っている私に夾竹桃の白い花が風に揺れていた。(季語・太宰忌)

 

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自句自解(俳句春秋) 2017/春

俳句春秋 2017・春     上泉呑海

 まぼろしの蝶を見てゐる花の椅子

 桜を愛でていると、四頭の蝶が舞っているような気がした。その蝶は、なつかしい父母、祖父母ではないかと思われた。四人とも桜が大好きであった。彼らはすでにこの世にはいないが、彼らもこの桜を見てをり、一族が再会した。(季語・花=桜)

 神々に触るるばかりに櫻かな

 靖国神社の社務所の二階から見上げたとき、桜花爛漫たる景が飛び込んできた。英霊が神々として靖国に帰還され、桜と交歓されていることを確信した瞬間の一句。(季語・桜)

 白鳥のこゑを遺して帰りけり

 俳句の世界では、親しい人が亡くなると弔句をつくり、その人を偲ぶという伝統がある。この句は先般、私の句友が亡くなった折の弔句である。その方は、著名な水墨画家でかつ俳人であった。ころころとした明るい声の持ち主であった。ちなみに、「澤乃井」や「浦霞」のラベルも描いておられた。(季語・鳥帰る)

 

鎌田俊句集『山羊の角』一句鑑賞

飽食の世に狼の生きられず    鎌田俊

 

この句の眼目は「狼」である。太った豚はあり得ても、肥えた狼など存在しない。アポリアとしての狼は、飢えていなければならない。換言すれば、狼の才能とは、飢えてなお生き続けることであろう。メタファーとしての狼…私は以下の人々を想起した。三島由紀夫、江藤淳、村上一郎、野村秋介。皆、現代ののっぺらとしたふやけた飽食の時代に絶望して自ら命を絶った人たちである。そしてなお、その言語、行為、思想において、死してなお生き続けている漢たちである。もとより、鎌田俊氏の描く狼とはまるで違っているとは思うが。 句集『山羊の角』の全三百二十句の中で狼が詠まれているのは、<おほかみを祀りて水の澄みにけり><狼を起こさぬやうに話しけり>と掲句の三句である。<おほかみ>の句は、三峯神社などの景であろう。問題は、<狼を起こさぬやうに話しけり>である。この狼とは、何のメタファーであろうか。狼とは、日本ではもう既に絶滅したという山犬であると、鎌田氏は「蛇の足」で解説している。私は失われた日本人のエートスだと、感じ入った。これまた氏の想定する狼とは異なるだろう。 読者それぞれがイメージする狼とは何であろうか。

自句自解 俳句春秋・2016・冬

俳句春秋     上泉呑海

狼の最期、それからの占領期

現在、日本に狼は存在しない。絶滅したからである。掲句の「狼」を私は、三島由紀夫、江藤淳、村上一郎らのメタファーとして使った。現代のふやけた飽食の時代に生きてなんぞいられない男たちである。狼の死後、日本は精神的にも占領期が続いている。(季語・狼)

 極月(ごくげつ)の海軍カレーに浪の音

 十二月八日は開戦日である。日本で最初にカレーが出されたのは海軍であり、戦前から海軍では毎週金曜日にカレーが提供されている。昨年、海上自衛隊横須賀地方総監部のトップと会食したが、その際、出されたのも海軍カレーであった。(季語・極月=十二月)

 去年(こぞ)今年(ことし)まだガラケーで押し通す

 俳句では俳諧味という言葉がよく使われる。俳句ならではの、可笑しみである。この句は俳諧味があるというほど上等ではないが、私としてはめずらしく息を抜いて作った。(季語・去年今年)

角川春樹句集『健次はまだか』一句鑑賞

国敗れたる日や天にこゑもなし    角川春樹

「国敗れたる日」とは敗戦日を指す。しかしここでは、昭和二十年の八月十五日であると規定したい。あの日、日本列島は抜けるような青空が広がっていた。昭和天皇の終戦の詔勅を聴いた。直後、人々は言葉を失い、しいんとした静けさに包まれた。完璧な無の瞬間。まったく言葉のない世界である。あるのは、強い陽の光のみ。鳥の声もない。人の声もない。神の声すらない。どこまで行ってもたどり着けない、しいんとした、絶対的な静けさ…武力による全的敗北とはそうゆうものであろう。この絶対的な沈黙は何を意味するのか。天籟が聞こえたのだ。そしてその天籟は、角川源義においては国語教師を辞めさせ、「角川書店」を興させる声となった。柳田國男、折口信夫を師系とする民俗学徒であった源義は、占領下の教師という役回りを演ずることに納得できなかったのだろう。そして、先の大戦の敗北は、「軍事力の敗北であった以上に文化力の敗退」でもあることを思い知った。源義には<敗戦の日や向日葵すらも陽にそむき>という痛切な一句がある。掲句は、父・源義に対する春樹主宰の渾身のオマージュである。

自句自解(3)

俳句春秋     上泉呑海

かなかなや時間の影を曳いて啼く

かなかなとは、蜩のことで、秋の季語である。私は小さいころから、家の裏山で鳴くカナカナカナ…という声を聞いて育った。人生、いろいろなことがあったが、もの哀しいこの声を聞くと時間の影を曳いて啼いているように感じられる。

水と空ひとつに溶けて秋満てリ

秋になると海の色が澄んで濃くなってくる。青が藍に変わるのだ。秋のセーリングは一年で最も気持ちのいいものだ。水と空がひとつになり、気分も高揚。「行こうぜ、行こうぜ」という気持ちになってくる。

寄港地のハーバーライトにある秋気

秋の気配をどこで感じるか。この句は、遠くから見た寄港地のハーバーライトに感じた、という意味だが、この寄港地はすべて読者のイメージにゆだねられる。外国でも国内でも、読者がイメージして下さることができれば、作者としては最高に嬉しい。

 

歴史と真実     横田順弥『書林探訪』より

古書だけでなく、そこに歴史や人物が関係してくると紹介が難しい。攻玉舎学園の創始者近藤真琴の伝記『近藤真琴先生伝』(昭和和十二年)に、山屋他人海軍大将が攻玉塾時代の裏話を披露している。塾生のひとりで、のちの上泉徳彌海軍中将が「ランプをひつくり返して、机の上一面に石油を流してしまつた。この人元来乱暴者のこととて、油気を抜く為め之れに火を付けてさかんに燃やしてゐた。折柄庭前巡視の近藤先生に見つかつてしまつて、非常に怒られ一時停学(?)といふ事で即時退舎を命ぜられてしまつた」。さらに近藤は上泉が自分に反抗したと判断。退校処分も考えたが、保証人の詫びで誤解と知ったそうだ。『上泉徳彌伝』(昭和三十年)を見よう。入舎した上泉は二、三日塾長に会えなかった。「其のうち塾長と云う方が始めて教室に見えたので、直に起立して『近藤先生とはお前でおいだつたかし、宜敷お頼み申す。』と米沢弁丸出しでやった処が、先生は目を怒らして『先生をお前とは何だ、馬鹿野郎。』と一喝された。(中略)塾内でランプ掃除をして居た処、石油を少し机上にこぼしたので火をつけて見ていた」ら即座に退塾を申し渡された。上泉は、「そうですか」と荷物をまとめて帰った(「お前」の件は、後日、近藤も方言だと知って納得したという)。前著の著者は良心的で、上泉に確認をした。上泉は『近藤真琴先生伝』に自分の名前が載る光栄を述べ、続けて「御記憶にも多少の御間違いも有之候へども大体の筋書には大差無」いので訂正不要、と返書。二冊とも本人の没後刊行の非売品。正直、このエピソードが両書に載っているのを探し出すのには、苦労した。山屋他人の伝記には出ていない。果たして真実は、どうだったのだろうか?いつもながら、歴史探索の難しさを痛感している。

自句自解 上泉呑海

白服やトランペットの海ゆかば

白服は海軍の象徴である。巻頭のエッセイに書いたように、即興のトランペットの哀切な調べが胸に染みた。NHKのドラマ「坂の上の雲」の主人公、秋山真之役の本木雅弘の白服が鮮やかだった。

薔薇の雨デジャビュの街と軍港と

横須賀を歩いていると、初めて歩く道でも幼いころに来たような記憶がよみがえる。父は横須賀の裁判所の裁判官だった時期がある。そのときの記憶とだぶるせいなのだろうか。

薔薇の雨ドックヤードの潜水艦

このドックヤードは第七艦隊の母港であるアメリカ極東艦隊のものである。つまり、悲しいかな、日本の潜水艦がアメリカのドックヤードで修理を受けているのだ。これが平成日本の現実である。

トランペットの海ゆかば

トランペットの海ゆかば

五月二十七日(旧海軍記念日)、私は横須賀の記念艦三笠で行われた日本海海戦111周年記念式典に参列した。式典後、海上自衛隊横須賀音楽隊による演奏が行われ、トランペットによる即興の鎮魂の譜「同期の桜」「海ゆかば」が演奏された。その哀切な調べに目頭を払うオールドネービーたちを目撃した。遺族と思われる老婦人たちも同様であったし、私の心にも熱いものがこみ上げてきた。

思うに、帝国海軍という組織は、明治維新以降の近代日本が生んだ数知れない組織体の中で最もユニークなものの一つである。そうでなければ、それが滅んですでに71年も歳月が過ぎ去った今でも、何万何千という元ネービーが実在する組織に対するような愛着をもってお互いの結束を確認しあう機会をもち続けている現象を理解できないし、アメリカを始め世界の主要海軍国が熱意をもってその飛躍と転落の足跡を研究し続けている現象を理解できない。

組織が人を生かすのか、人によって組織が生かされるのか。帝国海軍の場合、創成期に傑出した人材に恵まれ、その幸運が組織を充実させた。すぐれた組織と人材のバランス。この機能を最大限に発揮したのが、日本海海戦の完全勝利であった。しかし帝国海軍が国運をかけてバルチック艦隊全滅という至難の使命達成をなしとげたこの時が、組織にとっても人にとっても頂点であったように思う。

軍艦のような生きた協同体にあっては、その戦闘能力を決定するカギは乗組員全員にどれほど渾然たる一体感があるかである。この一体感は艦長以下の幹部が日頃いかに部下の士気を掌握し信頼を得ているかにかかっている。

たとえば、一つの水雷戦隊に属する数隻の駆逐艦が同じ条件で敵機の来襲を受けた場合、一分以内に脆くも轟沈するフネから何時間も平気で雷爆撃を回避して生き残るフネまで、運命が分かれるのが常である。

その差はどこから来るのか。もちろん実戦に運不運はつきものだが、「撃チ方ハジメ」の艦内命令が出た瞬間、艦長の操艦指揮と一水兵の一挙手一投足の間に一呼吸ほどでも間隙のあるフネは、間違いなく撃沈される、と歴戦の駆逐艦乗りから聞かされたことがある。

帝国海軍はフレキシブル・ワイヤー(しなやかな綱)でなければならないとよく言われるが、その後、先の大戦末期帝国海軍は集団としての柔軟性をことごとく失っていった。神風特攻の編成責任者は練習機程度の飛行機に十分な燃料を乗せることもなく、毎日、多くの若い生命を南溟に捨て続けた。何がここまで組織を硬直化させたのか。

それを研究することは今後の日本を考える上で示唆に富むのではないか。記念艦三笠での「海ゆかば」を聞きながら、自分の属している国家、民族、社会、時代を己のこととして考えることの少なくなった昨今を思った次第である。(2016年6月)

 

江藤淳 陰陽・虚実・裏表

あれは暮れもまだそれほど押しつまらないころだったが、私は資料を捜しにある古書展に出かけた。場所は神田駿河台下の古書会館で、「明治・大正・昭和・文献百年古書展観大入札会」という大看板を掲げた催しである。

しかし古書展といっても、当節では客寄せにつかわれているのは古書よりは

むしろ短冊・色紙・書画幅のたぐいのほうである。値が上がっているとはいうものの、利幅の限られている古書とはちがって、筆跡のほうは骨董なみの商いができるという売り手側の思惑があるのかも知れない。あるいは近代文学館の開設などに刺激されたひとつのブームが、この世界にもおこりつつあるのかも知れない。その辺の事情がどうなっているのかよくわからないが、いずれにせよ私は、はからずもこの展観で、種々さまざまな文学者の筆跡を見て歩く機会にめぐまれたのである。

それは私にとっては、それほど清清しい体験だとはいえなかった。巧拙は別として、文士の筆跡には、どことなく私の嫌悪感をそそるものが多かったからである。それらはどこかで折れ曲がり、病み、求愛し、自己を無残に噴き出し、見ているうちにだんだん息が詰まりそうになって来る。

もし書が人格をあらわすものだとすれば、この会場にぎっしりと並んでいる人格は、どれもあまりめでたいものだといえそうもなかった。私の嫌悪感に自己嫌悪が反響していたことはいうまでもない。ただ隠れているというだけで、自分のなかに同じいやなものがあることは確実だったからである。

秋艸道人はいわばこの道の玄人だから、その書に見事な造形感覚があるのは当たり前である。これを別格とすると、ああ、窓が開いているな、風が吹きこんで来るな、と感じられるのは、漱石と晩年の谷崎潤一郎くらいのものであった。しかし漱石にも、意外に弱々しい、肩のそげ落ちたような色紙があり、潤一郎の書も、若いころのものにはちょっと白痴的なところがある。荷風も決して気持のいい字ではないが、鴎外はもっと惨憺たるものであった。へただというのではなくて、ひと口でいえばいやらしいのである。あるいはひどく小心翼々としているのである。

いい加減いやになって帰りかけると、入り口の近くに実にさわやかな大幅の書が、ふたつ並んで掛かっているのが目についた。そこだけは青空が開け、薫風がわたって行く、というような気持のよさであった。ほっとしてそばに寄ってみると、それは果たして文士の書ではなかった。そのひとつは副島種臣であり、もうひとつは広瀬武夫だったからである。

副島なら漢学に通じていたので有名な人物古本屋である。彼は太政官政府の外務卿として英国公使パークスの「天狗の鼻」をくじき、北京に使いして李鴻章と対等にわたりあって名をあげた。そのため下野して明治八年に中国漫遊の途についたときには、世間がきっと北京の朝廷に仕官するのだろうといううわさを立てたほどだという。このうわさにはある程度の根拠があったのである。

この副島が、蒼海と号して書をよくしたことは、かなりよく知られた事実である。私は今まで実物に接する機会がなかったが、こうしてつぶさにながめてみるといかにも大らかな字で、しかも壮烈雄渾の趣がある。副島に清朝への仕官をすすめて断られた李鴻章が、それではなぜ大久保利通と妥協しないのか、大久保の上にいるのも下にいるのもいやなのかと反問したとき「人の上とならず、人の下とならず、心まことに寧静にして、大福長者たり」と答えて、李を唖然とさせたという偉丈夫のおもかげを、ほうふつさせるような立派な字である。

これはいいなあと思ってほれぼれと見ていると、見知りごしの古本屋の主人が、「どうです。買いませんか。安いですぜ。」

といった。値段をたずねると、「さあ、入札してみなけりゃ、はっきりしたことはわからねえが、五万とはしないでしょうね。まあ三万てとこかね」といった。そして「あの啄木が五十万じゃとうてい落ちねえだろうってんだから、へっ、世の中が間違ってんだね」とつけ加えた。

彼のいう「あの啄木」とは、「こころよく春のねむりをむさぼれる月にやはらかき庭の草かな」という短歌の書かれた歌幅のことである。それはたしかに美しく、優雅ですらあり、文学者の書のなかでは光っているもののひとつであったが、素人の私が見ても、書としてのスケールは副島とはくらべものにならない。私も副島ファンの古本屋にならって首をかしげ、内心のショックをおさえかねた。

「あたしが買っちまいたいんだけど、掛けるところがないんでね。あんたのとこはどうですかね」と古本屋がいった。私のところにはだいいち床の間がない。そういうと古本屋は、やれやれといった調子で首を振った。のちに彼が電話で知らせて来た情報によれば、啄木は結局八十九万円で落ちたそうである。

副島はやはり三万円で、広瀬武夫はそれ以下であった。世の中がどうも少しおかしいと、私は慨嘆せざるを得なかった。

私がいいたいのは、いわば単に陰であり、虚であり、裏側の仕事だったはずの文学が、今日陽であり、実であり、表側の仕事である政治・外交のごときにくらべて、これほど偏重されているのは異常ではないか、ということである。それが単に文運隆盛のしるしならおめでたいが、本当にそうであろうか。陰陽・虚実・裏表の順序が狂っている世界の繁栄は、実は虚像の繁栄ではないか。そしてそのなかで文学は、実は涸渇して行くのではないか。

私はなにも、啄木の歌幅に副島種臣の七絶の三十倍の値がついているからといって、啄木がけしからぬといっているわけではない。第一こんな値ぶみは、啄木の知ったことではない。値をつけたのは今日の文運隆盛的時流であり、啄木は一生貧乏して死んだからである。

こういう文運隆盛の余沢をこうむって生計を立てている批評家のひとりとして、私は純職業的見地からすれば、おそらく文学者の社会的・え、済的地位の向上を喜ばなければならないであろう。文士が「進歩」と「正義」の味方のような顔をして威張っていられて、そのことによって多額の収入を得られるような時流に変化がないほうが、自分には好都合なはずだからである。だが、そう思いながらも私は、本来陰であり、虚であり、裏側の世界の生息者であるはずの自分が、どうして表通りで営業しているような顔をしなければならぬのか、という疑問からのがれられない。早くいえば私は、このことがひどく恥ずかしいのである。

これが私ばかりの感想ではないことは、先日ある場所で同席した某作家が、「おれの収入が内閣総理大臣の給料より上だというのは、どうもちょっとぐあいが悪いよ」と述懐していたことからもうかがわれる。この作家は私より年長の純文学作家であるが、別段大流行作家というわけではない。批評家である私の収入が、この作家にも内閣総理大臣にも遠く及ばぬことはいうまでもない。だから私のいう「恥ずかしさ」は、かならずしも収入のことだともいえない。それはむしろ、文士がいるべき場所を間違えているという感覚に近いのである。

最近英国の桂冠詩人になったセシル・デイ・ルイスは、原始社会における詩人が、しばしば不具者、あるいは病者であったといっている。つまり彼らは、本来社会に生存を許されぬ者、かりに許されても表側の実社会の人間から侮蔑されざるを得ない者であった。この陰、はまた虚の世界の生息者が、わずかに存在を主張し得たのは、不具や病苦の代償として彼らが得た鋭敏な感受性と想像力の所産、つまり詩歌や物語の力で、実の世界の住人に悦びをあたえたからであった。

こういう詩人の属性は、文芸の目的が善や美ではなくて真実の追及だとされるようになった近代になっても、多くの社会うにいたといってよい。現に私は、その最も新しい例を、ノーマン・メイラーと現代アメリカ社会との関係に見ることができた。メイラーはこの社会で英雄・偶像として尊敬されるかわりに、多数の侮蔑の対象となっている。彼の講演に集まる聴集も、いわば「侮蔑される者」というメイラーのアイデンティティを維持してやるための協力者、といったようなものである。しかしこれは、メイラーの善良なアメリカ市民としての不名誉であっても、「詩人」ー文士としての不名誉だとはいえない。かりに彼が、その作品を、文字によりは実人生に書くことを、いささか好みすぎるとしても。

文士と社会との、つまり陰と陽、虚と実とのこういう健康な関係は、前述のとおり今日の日本からは全くうしなわれているように見える。ここでは文士は、陰と虚との、つまり「文学」の旗印をかかげて、陽と実、つまり政治と商業にいそしみ、そのことによって世の称賛を得ようと腐心しているのである。そして世間もまたこのことを許しているのである。

幕末・明治初期の戯作者と社会のあいだには、おそらくこの健康な関係が維持されていた。だとすれば、今日の倒錯の原因は、通常日本文学に近代を開いたとされる、坪内逍遥の「小説改良」のなかにひそんでいたのかも知れない。彼が「稗官者流は心理学者のごとし」といって、戯作者を科学者と同列に置いたとき、逍遥はおそらく陰・虚・裏の世界の生息者だった文士を、陽・実・表の世界に引きずり出してしまったのである。

それはいうまでもなく、日本が引き受けた近代国家建設という大事業が、不具者や病者の手をも必要としていたからにはほかならない。文士はこれ以後、片手で国家建設という「実業」に従事しながら、残った片手で近代小説の確立という「虚業」に従事するという奇妙な一人二役 を強いられてきた。それは鴎外・漱石というような直接国家建設に参画した文人ばかりでなく、藤村・花袋・泡鳴というような在野の文士についても同じである。この過程に虚偽の芽がひそんでいた。彼らがそれにもかかわらず「詩人」であり得たのは、この過程でなお伝統的な陰陽・虚実・裏表の関係が、社会の不文律のなかに維持されていたからである。啄木が反抗的詩人であり得たのは、彼を生活無能力者と断罪する実社会の規範が堅持されていたためである。

今日「国家」のみならずこの規範までが全面的に崩壊していることは、つけ加えるまでもない。かつて三島由紀夫氏がボデー・ビルをはじめ、胸毛の濃さを誇ったころには、功利的実社会に陽の人間として生きるための「仮面」を、その肉体に求めざるを得なくなった病者・不具者のアイロニーがあった。現在自らの不具性・癈疾性・生活無能力者性を白昼堂々と掲げて、旺盛に政治と商業を行なっている文士たちには、すでにこのアイロニーの自覚はうしなわれているかのように見える。

虚業を掲げて実業に従事することはすでにひとつの虚偽である。さらに病者が統治しているこの崩壊後の社会は不文律のかわりに巨大なジャーナリズム機構のつくり出した虚像におおわれている。文士はこうして政治と商業を行なうために虚像に忠誠を誓わざるを得ず、虚偽をおかしつつ虚像の中に生きることを強いられている。近代小説の仮構は真実にいたる道程であった。今日の小説の仮構はしばしば真実から遁走する手段であるかのように見える。

かつて久保田万太郎は、悪人なら悪人らしい小説を書けといった水上滝太郎の批判を伝え聞いて、「そんなことをしたら、今までの僕の読者がみんな逃げてしまうよ」といったという。これはスキャンダルとして小島政二郎氏に記録されている。今日の文士は、万太郎以上に読者の目に映じる自己の虚像に拘束され、かつそれを維持するために涙ぐましい努力をつづけている。しかもこれはスキャンダルではないのである。

神のものは神へ、カエサルのものはカエサルへ、というのが、私のことしの文壇に対する期待である。しかしそれは容易に実行されまい、というのが、私の漠然たる予感である。                (1968・1)